人権cafe vol6|人権としての社会保障・健康権

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1.心に体に無理をせず

社会保障とは、私たちが心に体に無理をせず、働き生きることができる社会づくりを志向するものです。無理をせず、というところがポイントです。言い換えれば「頑張らなくてもよい社会」といったところでしょうか。
ただし、現状においては、この社会保障の理念・考え方への認識が広まっているとはいえません。残念ながら、いまだに浸透しているのは貧困や疾病、健康に対する自己責任論です。
「頑張るのは当たり前」とする風潮、同調圧力が根強いように思います。自己責任が過剰に求められていますが、社会保障が対応する病気や貧困、失業、子育てなどの事柄は、努力すれば何とかなる問題ではありません。
自己責任ではなく、社会的に対応すべき問題だからこそ、私たちの住まいの近くに病院やハローワーク(公共職業安定所)、福祉事務所、保育所などが設置されてきたわけです。
新型コロナによるパンデミックは、自己責任論の無責任さと、生活と仕事を丸ごと守るセーフティーネットの不可欠さを明らかにしていると思います。

 

2.「自助、共助、公助」は社会保障の説明ではない

ところが本来、社会保障の向上および増進に努めなければならない政権によって、社会保障の理念・考え方の変質化が図られ、社会保障を歴史的に後退させようとしています。
2020年12月に閣議決定された「全世代型社会保障改革の方針」(最終報告)では、「菅内閣が目指す社会像は、『自助・共助・公助』、そして『絆』である」としています。「絆」は精神的発揚を促すためのものです。社会保障は「自助・共助・公助」論では説明できません。
「公助」とは「お上による救貧的な対応」であり、「自らの力で頑張った上で、助け合いでも対応できないような、かわいそうな人に手を差し伸べてあげますよ」というものです。自己責任や相互扶助での努力を前提としています。恩恵的な発想で人々を管理・支配しようとするものであり、なおかつ権利として認めないという思想が土台となっています。

3.憲法25条を実感できる社会へ

私たちには憲法があります。憲法25条は「社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進」による社会づくりを志向しています。
先人たちが、いわばレンガを1つずつ積み上げてきたのが社会保障の歴史的な発展経緯です。地域の実態を把握し、先駆的な取り組みを行ってきた各地の民医連の活動や歴史を学ぶと、日本の社会保障の歴史を理解することができます。
人権としての社会保障をめぐる重要なたたかいのひとつに、朝日訴訟があります。朝日訴訟とは、結核で療養していた朝日茂さんが原告となり、国の定める生活保護基準とその内容では、憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保障されていないとして訴えを起こした裁判です。
朝日訴訟第1審の東京地裁判決(1960年10月19日)では、原告の全面勝訴となりました。判決は『最低限度の水準は決して予算の有無によって決定されるものではなく、むしろこれを指導支配すべきものである』とし、社会保障水準の向上は憲法を順守する政府(政治)の責任であることを明示しました。
こうした無数のたたかいによって積み上げてきたものを崩壊させようとする人たちによって吹聴されているのが、「自助、共助、公助」という整理方法です。
社会保障は人間の英知を結集した仕組みです。人々の声が生きる社会保障を基盤とした社会づくりを進め、憲法を身近に、生存権や健康権を実感できる社会を目指すことが重要です。

4.生活保護基準は私たちの暮らしの大事なスタンダード

なお、生活保護基準とは、生活保護を利用している人にだけ関係する基準ではありません。生活保護基準は、日本で暮らす人々が大事にしなければならないスタンダードです。毎年4月に生活保護基準が改定され、そのあと7月に人事院勧告(公務員の賃金水準)、10月には地域別最低賃金(すべての労働者の賃金)が改定され、翌年の春には春闘(1~3月、民間企業の労働者の賃金)があるというのが日本の年間サイクルです。
ですから、生活保護基準を引き下げれば、日本で働く人々の給与水準が全体的に下がり、生活がより厳しくなっていくことを意味します。
さらに、生活保護基準は様々な公共サービスの基準(就学援助、保育料・学校授業料の減免、医療保険・年金保険料、公営住宅の家賃など)です。つまり、生活保護基準は「自分には関係ない」どころか、「日本で暮らす人々のほとんどすべての人に関係する」ことがわかります。
こうした冷静で客観的な事実を知り、広めていくことで、「自助、共助、公助」論と対峙し、私たちの時代で社会保障を崩壊させるのではなく、歴史的発展へとつなげていくことが重要ではないでしょうか。


民医連 人権カフェ リーガル・アイ

公園のベンチ

私の職場のある池袋の街にも再開発の波が押し寄せています。いくつかの公園も、再開発の際に「きれい」にリニューアルされました。
都会の新しい公園で目に付くのは様々なデザインのベンチです。くねくねと蛇行していたり、天板が丸みを帯びていたりします。他方で、横長で平らな昔ながらのベンチを見ることは減りました。
その理由はホームレス対策です。一部の自治体は、ホームレスの支援という本来すべき取り組みではなく、いかにベンチの寝心地を悪くしてホームレスを地域から追い出すかを競っています。よく見ると、残されている昔ながらのベンチにも真ん中に肘かけが加えられて寝られなくなっています。野良猫が来ないよう庭にトゲのマットを敷くのと同じです。不都合なものは視界から消して、ないことにしてしまおうという発想です。
同じく行政が見て見ぬふりをするのが、生活保護申請者です。生活保護の申請に行くと、いつのまにか申請ではなく「相談」に来たことにされ、申請書をもらえないことがあります。とにかく申請書の提出さえ阻止すれば、来なかったのと同じになるから保護するか検討せずに済むという発想です。
このように、行政は色々な社会的弱者に対して、「いない」ことにして処理しています。検査をしなければ感染者が「いない」というのと同じです。「いない」ことにすれば、他の人たちが社会的弱者の存在に気兼ねなく生活できるし、行政も保護のための予算を使わなくて済むからです。
しかし、このような対策は人権を蹂躙した明らかに不当なものです。何かのきっかけで家や仕事を失ってしまったというそれだけのことで、多くの人が社会的に「いない」ことにされています。人としての存在を無視されるということは最大の人権侵害の一つです。住民が自治体に対して声を挙げ、自分たちが求めているのは社会的弱者を見えなくすることではないと示す必要があります。

 

あすわか弁護士
片木 翔一郎


 

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